阿波藍

阿波藍

日本の色「JAPAN BLUE」-阿波藍の魅力-

「青は藍より出でて藍より青し」ということわざがありますが、藍染めの青い色は、「JAPAN BLUE」として世界に知られるほど深く鮮やかな日本を代表する色です。 馴染みがあるものとして、サッカー日本代表のユニフォームを「ジャパンブルー」と呼んでいますが、これも「藍色」を表現しているといわれています。 徳島は、この藍染めの元となる藍染料「蒅(すくも)」づくりの本場として、現在もその伝統が引き継がれ、徳島でつくられた蒅(すくも)を阿波藍と呼びます。 では、藍染めの一番の魅力とはいったい何なのでしょうか。 それは、やはり色そのものにあり、瓶(かめ)を覗いたときのように薄い色である「甕覗き」(かめのぞき)から始まって、「薄藍」(うすあい)、「浅葱色」(あさぎいろ)、「縹色」(はなだいろ)、「藍色」(あいいろ)、「勝色」(かちいろ)、「留紺」(とめこん)など、藍の色を表す様々な名称のとおり、多様な色彩美が染め出されることにあります。

藍染めの体験施設

徳島県内には、藍染め体験のできる施設があります。専門の方の指導のもと、気軽にハンカチなどの藍染め体験をすることができます。所要時間は20分から1時間以上と内容や人によって変わりますが、40分くらいが一番多いようです。当日でも体験できるところもありますが、前もって電話で予約をすることをおすすめします。詳しくは各施設に直接お問い合せください。

藍住町歴史館 藍の館

藍住町歴史館

昔ながらの藍汁を使った藍染め体験を、指導員の説明を聞きながら、ハンカチであれば全行程20分ほどで染めることができます。また、木綿・麻・シルクに限り、染め物の持ち込み(1g15円・要予約)による藍染め体験もあります。

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本藍染矢野工場

有限会社 本藍染矢野工場

江戸時代から伝わる「天然灰汁発酵建てによる本藍染」を伝承し、平成の時代となった今も日本古来の「本藍染」の色を守り続けています。藍染め体験(要予約)や販売も行なっています。

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古庄染工場

古庄染工場

阿波藍を使用した「天然灰汁発酵建て」による藍染め工程の様子を見学できます。
「現代の名工」である「古庄紀治」氏から指導を受けたい場合は、ご予約をお願いします。

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藍染工芸館

藍染工芸館

藍染め製品が販売されているほか、藍染めの体験もできます。

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長尾織布合名会社

無料で藍染め工場の見学ができます。藍染め体験の所要時間は約40分で、団体受け入れは約100人まで可能です。ご来館の際は、事前にご予約を入れてください。

岡本織布工場

要予約でストール、スカーフ、テーブルクロス、Tシャツなどを染めることができます。

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阿波藍の歴史

阿波藍のはじまり

阿波藍のはじまり

 

阿波藍の起源は平安時代、徳島の山岳地帯で阿波忌部(いんべ)氏が織った荒妙(あらたえ)という布を染めるために、栽培が始まったと伝えられています。最古の資料は『見性寺記録』というもので、その中には宝治元年(1247年)に藍住町の見性寺という寺を開基した翠桂(すいけい)和尚が、そのころ寺のあった美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)で藍を栽培して衣を染めたと記されています。その後、藍づくりは吉野川の下流域に広がっていきました。『兵庫北関入船納帳』には、文安2年(1445年)に大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされたと記録が残っています。

阿波藍のはじまり

 

戦国時代の藍づくり

 

戦国時代には、藍の色の1つである「勝色(かちいろ)」が、勝利につながる呼び名という縁起のよさから、武士のよろい下を藍で染める需要が高まり、ここから藍の生産が本格的に行われるようになったといわれています。そして、それまでは、葉藍を水につけて染め液をつくる沈殿藍で藍染めを行っていましたが、天文18年(1549年)に三好義賢(よしたか)が上方から青屋(あおや)四郎兵衛を呼び寄せ、すくも(藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った染めの技術とすくもの製法が伝わり、三好氏の城下勝瑞では、すくもづくりが本格的に行われるようになりました。

江戸時代に隆盛を極める

 

天正13年(1585年)、蜂須賀家政公が藩主となってからは、徳島藩では藍の生産を保護、奨励しましたので、いよいよ藍づくりは隆盛を極めたのでした。徳島の藍は、その品質の高さからも別格扱いとされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。藍づくりを全面的にバックアップした蜂須賀家の力は大きく、一説には蜂須賀公が播州から入国した際に藍を持ってきたと伝えられています。そして、徳島藩は、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立し、“阿波25万石、藍50万石”とまでいわれるほどになりました。元禄時代には、全国的に木綿が多く生産され、それにともなって阿波藍も大量に生産されるようになり、その作付け面積は、寛政2年(1790年)に6,500町歩(ちょうぶ)もあったという記録が残っています。 ※ 1町歩=約3,000坪

そして今も愛される藍

 

そして今も愛される藍

 

明治以降も藍作は盛んに行われ、北海道から九州まで栽培されるようになり、全国的には明治36年に最高の生産規模になりました。特に徳島県は作付面積、生産量とも全国の過半数を占めていました。 しかし、その後、インドから良質で安価なインド藍が輸入され始め、明治後期からは化学合成された人造藍の輸入が急速に増大し、日本の藍づくりは衰退の一途をたどりました。 徳島県でも昭和41年には4ヘクタールにまで栽培が減少してしまいましたが、阿波藍の魅力は人々を引きつけて止むことはありませんでした。そして、天然藍の持つ美しさや風合いが見直され、藍は全国的にも静かなブームとなっています。

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コラム

阿波藍は吉野川のおくりもの

阿波藍は吉野川のおくりもの

徳島の歴史を語るとき、藍を除いては語れません。では、なぜ徳島で藍の栽培が盛んになったのでしょうか。
徳島県の吉野川流域で藍づくりが盛んになったのには理由があります。それが「吉野川」です。
県内を東西に流れる清流「吉野川」は、その昔は、台風が来るたびに洪水を繰り返す「暴れ川」でしたが、その氾濫によって流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしたのです。
また、洪水は毎年8月頃に来るのですが、藍は洪水の襲来する前の7月に収穫することができる作物であったことも、藍が栄えた大きな要因の1つでした。

藍のふるさと

藍のふるさと

洪水地帯で育った藍は粉にし、乾燥させ発酵させた後で、自然に固まった“すくも”という藍染めの染料となります。この“すくも”は、吉野川の水運によって、江戸や大阪、名古屋などへ出荷されました。うだつで有名な脇町※などは、藍問屋の蔵が建ち並び、阿波藍の集散地として繁栄したのです。そして現在、全国で使われる“すくも”のほとんどは徳島で作られており、まさに徳島は「藍のふるさと」と言えます。

藍の効用一口メモ

藍には抗菌作用、防虫、防腐、防臭、保温、保湿、紫外線遮蔽など、さまざなまな効用があります。 また、化学薬品を一切使用していない藍染めは、赤ちゃんの産着としても使用でき、小さな子どものアトピー性皮膚炎の予防・緩和にも効果があるといわれています。

「JAPAN BLUE」とは誰が言った?

「JAPAN BLUE」とは誰が言った?

阿波をはじめ日本の藍が染め出す深みのある青を「ジャパンブルー」と最初に呼んだのは、明治8年(1875年)に来日したイギリスの化学者アトキンソンといわれています。 アトキンソン当時の日本人の着物を見て「ジャパン・ブルー」と呼び賞賛したほか、明治23年(1890年)には来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も「この国日本は神秘なブルーに満ちた国」と絶賛しています。

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